言葉への拘り
私が再三にわたり何故言葉に拘るかを説明をせねば、一方的との謗りを免れません。
以下の通りです。
個人は、少なくとも言語をつかうにおいて決して他者から切り離しては考えられない。それを介する以上他者とのかかわりが予定されており、好まないと言ったところで社会性がついてまわることになる。
しかもこれを文字にすることで、人を喜ばせることもあるが傷つけることも更にある。高度に発達した精神活動を、あやまたずに表現することは至難というより不可能に近い。
だからありったけでものを言うとき、可能なかぎり美しいことばで素直に表現することで、理解してもらうこともできたし、また逆には、性、善なるものと他を汲み取ることもできた。
日本語の成り立ちのなかで、伝承形式として確立した音声としての日本語が既にあって、そこに
文字も備えた中国語がはいってきたと考えられる。
取り入れざるを得なかった他文化は、その言語を理解することなしに、仏教であれ律令であれ触れることが適わなかった。
しかし神話や万葉に知ることのできる美しい日本語は現にあり、それを失わせることなく内容を読み解こうとすることは想像するだに苦難の連続であったとするに難くない。
模索模索して、ついには訓を使うという二重の読み方を発明することで、双方の文化を統合するを得るに至ったのだと思う。
しかも日本語を表す文字は、音のみならず『意味』までを兼ね備える。
そうしたあらゆる努力をしたに違いない先人を思う時、仇や疎かに言辞を弄してはならないと
思うのです。
言葉は、己をわかってもらいたいがため発せられるとしたら、その土俵にあがるときに必要な普遍的ルールであるというのが私見です。
人間は、唯一学習を許された動物であり、よい事を積み上げ伝統と昇華させることができるのであれば、及ばぬまでも歴史をつなぐ役割を少しなりと担わなくてはとも思うのです。
中国の周辺諸国に言葉遊びができるほどに文字を発達させたところがあるとは、私も寡聞にして知りません。
わが国には、平安の昔から掛詞をはじめとするシャレた言葉の文化があります。そのこと自体は、私も好きな部類はいります。
暴走族が書きなぐるおどろおどろしい誤変換は勘弁ねがうとして、羅列、思いつきのままでなくどこかにキラリと光る「娯変換」のちりばめであれば教養として受け止めもできます。
自分でわかっていることなので正直にいいますが、気性はどちらかといえば激しいほうで、どうにかコントロールできるようになったのは、不惑を越えてからのようです。ですから抜けきれないクセがまだ残っていて言わずもがなのことを言っている恐れは十分にありますが・・・、
縁起が悪いなんてとんでもない。全くその逆です。
墓石クリーニングを自分でしたら、何故か回り合わせが良くなったということで、今ひそかなブームになりつつあります。
クリーニングで墓石が綺麗になるだけでなく、良い運まで引き寄せられたのではないかと言うのです。
これは、とっておきのパワーストーンと言えるかも知れません。
潜在意識に届かせるのには、いいかげんな綺麗さで良い筈がありません。
自分でするところに大きな価値がありますが、綺麗にするにはやり方があります。
世の中には、大して努力をしているように見えないのに優雅に暮らしている人が少なからずいますが、その人にはツキがあるのです。
そういう何か見えない大いなる力は、確かにあるように思います。
それらは、一体どこのどんな力が働いてのことなのでしょう?
コンマパーセント以下の人が、本来誰もが持っている自分の内なる世界、潜在意識の偉大な存在に気づくのだとか・・・
ツキがないと言っている人は、えてして自分では何もしていません。
これだけ景気が悪いのに、何もしないでいるわけにはいきません。
春のお彼岸に、命日に、お墓参りをしてみて如何だったでしょう。
しなかった人は別として、墓石の汚れに気づいた方はチャンスです。
良くなるための何らかの知らせがインスピレーションとしてあったということです。
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